競争的環境における生理学者の課題 (小澤瀞司)

群馬大学医学部第二生理学教室 小澤 瀞司

  基礎科学と文化における知的優位性の保持、基礎・応用科学の成果に基づく技術開発、先進的科学技術を基盤とする新産業の創出などを国家的目標とする科学技術創造立国が、我が国を含む現代の先進諸国家の国是である。現在、我が国で社会的要請となっている大学改革も、熾烈な国際競争のなかで、この目標をより効率よく達成するための高等教育・研究体制の再編の動きの一環として捉えることができる。再編のための方策の一つは、大学を厳しい競争的環境の中に投げ込み、大学人から自助努力のエネルギーを引き出すことにあるとされている。

21世紀の最も重要な科学技術分野は「情報通信」と「生命科学、バイオテクノロジー」であり、両分野とも米国からは大きく水をあけられているが、特に後者ではその格差が拡がる一方である。この状況に危機感をもつ政治家グループが、ライフサイエンス推進議員連盟を発足させ、すでに公的研究費の配分に影響力を行使している。ライフサイエンスの興隆は、今や重要な国策となっているが、気になるのは、従来、日本の科学研究の問題点として、「基礎研究ただ乗り」状況の克服が課題とされていたのに、ここに来て平成不況の影響もあって、「新産業の創出など、役にたつ研究」の重要性が声高に叫ばれていることである。公的研究費の公募に申請した場合、厚生省、通産省、農水省等の省庁のものは、当面の行政的緊急性という観点から評価が行われることはやむおえないとしても、最近では、文部省も「各大学における主体的・積極的な産学連携の取り組みを推進するために各省庁と連携して、種々の施策を実施する」としており、その具体的施策の一例として、平成11年度から、科学研究費補助金の研究種目の中に、地域連携推進研究費(3年間で1億円規模の申請ができる)を新設してる。これは、大学の研究者が地域の企業をパートナーとして、地域産業の育成に貢献する研究・技術開発を推進することを企図したものである。筆者は地方国立大学の医学部に在籍しているが、国立大学独立法人化に直面し、ある程度の財政的自立と直接的な社会貢献を要請される状況の中で、「基礎医学者も、先端医療、創薬に結実しうる研究に貢献すべきである」という重圧を肌身に感じている。また、基礎医学の諸学問領域のなかでも、特に応用とは比較的遠い位置にある生理学の有用性が改めて問われ始めている。

このような状況の中で、生理学者は何をなすべきなのであろうか。当然のこととして、基礎科学のなかで、生体機能の解明を担う中核的学問である生理学の重要性、生理学のもつ先見性を、あらゆる機会を活用して、外部に発信することである。例えば、現在ではイオンチャンネルの研究が、多種類の疾患の病因の理解と治療に重要な役割を果たすことは広く認められており、この機能分子をめぐる多くの応用研究が提案されている。しかし、ここに至るまでに数十年間にわたる生理学者による地道な基礎研究があったこと、このような基礎過程における研究を支援することが、応用研究の展開のためにも必須であることを、具体例をもって、外部の人々に説く努力が必要である。近年、基礎研究と応用研究の両方の要素を両立させる戦略研究という概念が提起されているが、イオンチャンネルの研究の歴史をたどれば、優れた基礎研究が戦略研究としての側面をもつことは明かである。

本文では、仮にイオンチャンネルの研究を例に挙げたが、それぞれの研究フィールドで、生理学研究のもつ戦略性を強力にアッピールすることは、現代の世相の中できわめて重要である。

もう一つの我々の課題は、生理学を生物科学の主潮流のなかに積極的に位置づけ、その中心にあって、生理学者が主役を担う意気込みをもつことである。ヒトゲノム計画は恐らく2003年以前に終了する。その後の、いわゆるポストゲノム時代は、多種類の遺伝子産物の織りなす、細胞、組織、器官、個体の機能を解析する時代であり、とりもなおさず生理学の時代であるということもできる。しかし、楽観は禁物である。分子遺伝学の成果に基づく生体機能の研究は、臨床医学系の研究者を含めて、あらゆる生物学研究者の共通のテーマである。優れた分子生物学者が、伝統的に生理学領域のものと考えられていた実験技術を巧みに活用し、また場合によっては、生理学者を自分の研究グループに組み込んで、きわめて体系的、網羅的な機能研究を行っている多くの事例に遭遇する。生理学者は機能メカニズムに対する深い洞察力、緻密な論理性をもつが、他領域の研究者と交流し、彼らを巻き込んで、生物科学の主流を形成していくという意識性に欠けていたように思われる。ポストゲノムの時代のライフサイエンスの舞台では、生理学者は、自らの特性を活かしつつも分子遺伝学、構造生物学など周辺分野の研究成果、実験手法を積極的に取り入れて、機能研究の主役を務めていきたいものである。