大分医科大学生理学第二 有田 眞
生理学を意味するラテン語Physiologiaは,Fernel(1542)の命名によるとされるが,当時は「身体に関する知識」,「身体の 学」といった極めて広い意味で用いられていたという。時代と共に「身体の学」が分化発展しその方法論から,生体を構造・形態の面から追求する「解剖学」, 化学的機能に重点を置く「生化学」,物理的機能を主体に生体機能を究明する生物物理学(現在の「生理学」)なる三つの流れが形成された。しかし解剖,生 理,生化学いずれの領域においても,最近のように,事が分子・遺伝子レベルまで及んでくると,それぞれの境界は惣然と消失し,三つの流れは合流し,再び Physiologiaの時代が到来したのではないかとの錯覚をいだく昨今である。
個々の基礎医学領域における研究は,時代や社会の要請に沿って変々万化するものであり,現在の「生理学」隆盛を誇ろうと,衰退しようと,それはそ れで良いのであって,「生理学の独立性と永続性を確立するにはどうしたらよいか」などと騒ぐことはないという論法も成り立つであろう。ある意味では筆者も それを肯定するものである。
しかし,研究上の偉大な発見や大きな成果が,それぞれの領域における強い個性と独自性に立脚した継続的研究を基盤に生まれてきたことを思うと,現 在の生理学の流れを引継ぎ,次代の生理学を担う研究者・教育者の養成に思いを致さぬわけにはゆかない。これを達成するには,回り道のようではあるが生理学 に興味と関心をいだく,学生の層をいかに増やし育成するかという地道なところから手をつける以外にはなさそうである。大変しんどいことではあるが,我々教 官には今や良い研究者であり,かつ「退屈しない魅力的な授業をいつでも行いうる教育のプロ」であることが養成されているように思われる。「退屈しない」と いうのは,もちろん話術の巧みさを言っているのではない。「学生自らが学べる生理学であらしめるよう,いかに彼らを習慣ずけてゆくか」と言うことである。
私共の大学でも,近々時間制から単位制への切替を含めたカリキュラムの抜本的改正を行うべく,専門のワーキンググループが発足した。いくつかの大 学ではすでに試みられていることも含むが,生理学では,1)知識伝授型講義はGeneral physiologyのみに止める。2)Organ physiologyについては,基本的ないくつかの実習のほかは,可及的に臨床各科との合同ないしは連合講義として行う。3)基礎医学全講座が一定の期 間,基礎配属の形で学生を受け入れ,大学院生,研究生まで含めた指導態勢をもって研究活動に参加させる,などの対策が考えられる。この際の研究は,指導担 当者の「研究テーマの一翼を担う」形で行うものであっても構わない。生理学への本当の興味は,教室員とのマンツーマン教育を介して仲間意識を育て,ケース によっては学会発表に参加し,論文を共同執筆するなどの作業を通じてこそ生まれてくるように思えるからである。
このような考えは大学院生の処遇改善について,大学審議会が平成3年5月に提言した内容にも合致する。曰く「大学院学生をいわゆるティーチングア シスタントやリサーチアシスタントとして大学の教育研究の補助業務に従事させることについては,大学院生が将来教員・研究者になるためのトレーニングの機 会の提供や,学部教育におけるきめ細かい指導の実現等の様々な効用が認められる。(中略)一方,ティーチングアシスタント等に対して,大学が経済的措置を 講じることは,大学院学生の処遇の改善にも寄与するものと考えられる」。このような指摘をふまえ,平成4年度から発足したティーチングアシスタント制度を 活用しているところであるが,この制度を更に拡充発展させ生理学教育の活性化にも生かしてゆきたいものである。
さて,このような生理学の後継者養成の努力に対して暗雲をもたらしているものに,巷に聞く臨床研究義務化の動きがある。今まで永年に亘り,実質的 に行われてきた自主研修を支援し,さらに発展,補強するための工夫と方策であれば大歓迎する。国民の健康を預かる医師としての重大な責任を考えるとき,充 分な臨床研修が必要なことはもちろん言うまでもない。しかしこれを今さら新たに義務化する必要が一体どこにあるのであろうか? 臨床研修の義務化は,昨今 の民営化・自由化路線にも馴染まないものであり,特に基礎の立場からは問題の多い規制であるように思われてならない。