ある生物学者の哲学 (廣重 力)

北海道大学名誉教授

 このタイトルはThe Philosophy of a Biologistという本のタイトルの直訳である。著者はJ. S. Haldane, Oxford University Press (1936) とある。本文が183ページの小冊子で,私がもっているのは第2版,初版は前年の1935年に出ている。Haldaneは呼吸生理学の分野では「ホールデ ン効果」として有名な碩学である。私の専門分野は内分泌生理学,生物リズム学であったから,ホールデン先生のことはあまり知らなかった。東京の古本屋でふ とこの本を見つけたとき,学生の講義で勿論ホールデンの名前は知っていたので,むしろ奇異な感じがして買い求めた。ホールデン効果とは,ヘモグロビンの酸 素化の程度により炭酸ガスの結合度が変化する現象をいい,有名なボーア効果とは裏腹の関係にある。この効果は生体による酸素の取り込みに炭酸ガスが一役 買っていることを示し,肺呼吸と組織呼吸との効率的連関の例としても有名である。彼は1935年にRespirationという単行本をYale University Pressから出版しているから,同じ年に自分の専門の単行本と彼の哲学体系をまとめた著書を世に問うているのである。彼は1936年に76歳で死去して いるから,おそらく長年ひそかに温めてきた自分の哲学体系を人生の最後の機会に世に問うたのではあるまいか。そんな憶測がこの本を魅力的にする。いわば科 学者ホールデンの人生観・世界観を綴った遺書なのである。

私にはホールデンの哲学体系を批判的に紹介するだけの力がない。その目次をみると,「イントロ」に続いて「哲学と物理科学」,「哲学と生物学」, 「哲学と心理学」,「哲学と宗教」,「あとがき」と並んでいる。最初の「哲学と物理学」ではデカルト,スピノザ,ロック,ヒューム,ライブニッツやカン ト,ヘーゲル,ショペンハウエル,さらにはアインシュタインまで出てくるのでやや疲れるが,基本的視点は精密科学の立場を誇示する物理学批判にあるようで ある。それを生物学や心理学の立場から丹念に推敲しているのである。私には,どうみても同時代に活躍した英国のホワイトヘッドの主張と殆ど重なって聞こえ るのだが,このほんの中ではただ一回だけ(46ページに)ホワイトヘッドを数行にわたり引用しているだけである。いつの時代でも,また洋の東西を問わず, 同世代の人間は容易に認めあうことが難しいらしい。

私がホールデンの哲学に興味を覚えるのはやはり年のせいなのか,現場を離れたせいなのか,哲学とか世界観に興味が傾くこの頃である。しかしそれは 自然科学の否定であってはならないと絶えず自分を戒めている。なぜなら複雑系としての生理現象の解明に立ち向かう信頼できる方法論は目下のところ自然科学 的アプローチしかないからである。ここで問われているのは自然科学的方法論の適正な位置づけなのである。かつてエラスムスは次のようにいった。「一番悪い 政府は哲学や文学を体になすりつけた人間の治める国だ」。私のこの小文が誤解をまねき,一番悪いのは哲学や文学を体になすりつけた老生理学者のいうことだ などと陰口されねばよいが。