ヤヌスの顔 (松波謙一)

岐阜大学医学部反射研究施設 松波謙一

 ヤヌス(Janus)とはギリシャ神話の歴史(時間)の神です。一つの顔は過去を向き、 もう一つの顔は未来に向けています。一月(January)はこの神の名に由来します。新 年の一月は過去を見返すと同時に未来を見据えているからです。

私の生理学の歴史は医学部での松田幸次郎先生の講義で始まります。今でも覚えてい る言葉に、“Organ Physiologyは大切です”と言う言葉です。学生であった私が覚え ているのですから、何度か講義で繰り返されたのだろうと思います。後年、心臓につ いて論文を書く必要に追られ、文献に当たり、松田先生が世界に先駆け心筋の細胞内 電位を記録されていた事を知りました。そのことを考え、今の分子生物学の隆盛を見 ると、先生の言葉の重さが弥増しに増してくる昨今です。卒業後、私は内薗耕二先生 の第二生理学教室に入り神経系の研究に踏み出しました。松田先生の教室には級友の 松原一郎、小松英雄の両君が入りました。松原君はその後、nature誌上の数編の論文 を発表した俊秀ですが、54歳で亡くなりました。あまりにも若い死でした。他に基礎 医学に入った同期生には、時実先生の脳研生理に田中励作、薬理に小川靖男、病理に 三人、寄生虫学に一人と、結構な人数が基礎医学に行ったことになります。

当時、Hodgkin‐Huxleyの式とEcclesのIPSPのことを知らないと話しになりませんで したので、原著をゼミで読むと同時に、北里宏先生の単行本や渡辺昭先生の総説で随 分勉強させて戴きました。今でもそれが役に立ち、パッチクランプの論文を読むのも さほど苦にはなりません。福井の生理学会でも、Noble教授の心筋のsimulationの特 別講演などは大変楽しく聞け、講演後、個人的に一二の質問をし、親しく答えても戴 きました。

大学院卒業後は、時実教授、久保田助教授の居られた京大霊長類研究所に赴任し、サ ルの慢性実験を始めました、これは当時の主流だった細胞内記録法とは大きく違う方 法で、“そんなことやって何が解るんですか?”とその頃は随分聞かれたものです。 又、そういう質問をする人の気持ちも良く解りました。というのも、それ以前、時実 先生がNHK技研にEvarts博士を連れてこられた折りの講演を聞き、私も全く同じ感想 を持ったからです。その間、僅か三年程の隔たりしかありません。研究方法が違うと 相手を評価することが極めて困難だという事を身を以って体験しました。最近では慢 性実験について流石この種の質間をする人はいなくなりました。

一方、細胞レヴェルの研究はパッチクランプやスライス標本の導入で面目を一新しま した。加わうるに、遺伝子レヴェルの手法の導入も有り、in‐vitro実験は隆盛を極 め、瞠目すべき結果も出ています。この様な現況故に、今の生理学の研究と教育の将 来像が問われるのでしょう。教育に関しては、現今の講座制の、専門の限られた少数 の教官で総てをカヴァーする事は困難です。これを克服するには非常勤講師の活用と いう事も考えられます。しかし、大切な事は、道具となる基本的な事項は学生にしっ かり叩き込んでおく事です。これは教育原理の基本です。昔流に言えば読み書き算盤 であり、医学生には取捨選択された解剖生理生化の基本事項です。特に解剖学の基本 部分は重要だと思います。この事は医学部で人体に関わる限り変わらないでしょう。 それには、一時期、集中的に教え込むことも必要と考えます。鉄は熱い時に打て、の 喩えです。この為の講義は必要と思います。講義という形式は、批判はありますが、 知識の集約的授受には極めて効率的なシステムです。

研究については、新旧取り混ぜた様々なアプローチが可能です。その選択は個々の研 究者の資質以外、何者でもありません。只、その場合、時流を外れた地味な研究や、 重要だが効率の悪い研究も継続できるシステムは考えて置く必要があります。中型動 物を使ったin-vivoの実験などこれに当たります。今までは、曲がりなりにも、講座 費がそうした役割を果たしてきました。今の状況ではそれも覚束なくなっています。 過日、江橋節郎先生と話をする機会に恵まれ、その時、“このままでは生理学は滅ぴ ますよ”と言われました。“それを救うにはお金を付けることが必要でしょう”とも 続けられ、そうすれば若い人も自然に集まってくるということでした。永年、筋肉の 分子レヴェルの研究をなされてきた先生の言葉だけに、嬉しく力強く感じた次第であ り、敢えて書かさせて戴きました。

ヤヌスとはA. ケストラーの本の題名です(日本語訳;ホロン革命)。ホロン(全体 子)とはそれ自体完結した系ではありますが(例えば細胞)、同時に、一つの顔は分 子のホロンに、もう一つの顔は臓器のホロンに向けています。細胞というホロンの機 能はこの上下両ホロンとの関係を抜きにしては理解できないということです。因みに 、彼には“還元主義を越えて”、“機械の内の幽霊”などの著害もあります。従って 、その意図する所は明白です。所で、話が変わりますが、最近のヴァーチャルリアリ ティ(人工現実)の進歩は驚くものが有ります。そうしたものを見るに付け、広い意 味での人体生理学(Human Physiology)の必要を感じる昨今です。