最近の生理学会について恩うこと (高橋国太郎)

明治薬科大学 病態生理学 高橋国太郎

 一般に生理学以外の諸科学は解剖学にしろ、生化学、薬理学、分子生物学にしろ多か れ少なかれ方法論指向性が内在し、生体の働きの解明と言う点で全く自由な学際的思 考、研究手法の採用というわけには行かない。一方、生理学は昔もいまも生体機能の 成立機序を個体レベル、器官レベル、細胞レベル、分子レベルのすべての段階で明ら かにしようとする科学であって、医科学のなかにあって研究対象指向性という点で、 独自の立場を培っていたし、またこれからも育てて行く必要があると思う。勿論、こ れは原理的な議論であって、日本生理学会の研究がすべて現実的にもこの原則の上で うごているならば、日本の生理学はまさに王道の上を進んでいるのだから現時点で将 来への不安はなく、従って提言する必要もないという結論になってしまう。

そこで2−3の実際的な問題をとりあげて考えてみたい。まず、現在のように、方法論 的諸科学が個体から分子のレベルまで長足の発展を遂げているときには、生体機能の 解析をすべてのレベルで徹底して進めなければ、生理学の研究だからといって質を保 つことが出来ない。従って、研究者育成とくにこれから生理学を担うべき大学院教育 には一つの主題について個体レベルと分子レベルの両面から思考し、かつ実験を遂行 できる訓練と指導が必要で、そのためには現在の教官自身が学際的な思考に転換すべ きであるが、まだ徹底していないのが問題である。勿論、欧米の生理学教室にみられ るように若手の分子生物学者その他の専門家を導入して活性化をはかることもできる が、このときは個体から分子レベルまですべての手法で機能の解明をおこなうという 生理学的な思考を充分に生かした研究主題の設定が研究指導者には求められる。それ なくしては、集まってきた若手にとって生理学教室は単なる生活の場となり、popula rな研究からの疎外感のみが鬱積する可能性がある。従って、生理学の真価の発揮と 各方面からの若手を生理学に指向させるには研究主題の設定如何によると考えられる 。その点において、若手の不在を嘆くまえに、まず中堅の生理学者の柔軟な思考力の 養成が急務と思われる。

研究主題の設定と言う点での一例であるが、生理学研究が最近とくに深い関連を指摘 されるものに病態生理学的研究がある。疾患について各方面からの研究手法の進化の 結果、基礎研究との接点が極端に増加し、とくに各種受容体の異常に関連する病態研 究は基礎研究そのものとして発展しているという事実である。わが国の現状では、経 済的にも人員的にもめぐまれた臨床教室で多くの病態生理学の研究が担われている。 しかし、長期的でかつ基礎的な病態生理学的主題は生理学の本来から視点があれば極 めて生産的に発展させられるとともに医科学としての生理学自体の深化をもたらすも のと思われる。さて、生理学の発展の基本が研究者個人の生理学的思考と研究主題 の設定になるとするならば、日本生理学会がこれまで伝統的に培ってきた生理学者の 個性と各人の独自の発想をそれぞれ平等に尊重しようとする直接民主主義的な運営( たとえば各種委員の選出法)は極めて当を得たもので、先輩たちの先見性を示すもの といえる。もし、現代にあわないところがあるとすれば、10余の会場に分散して行わ れる大会に象徴ざれる専門分化の進行と、またすべての分野に渉る本質的な議論の展 開を個々の生理学者に不可能とする総合的思考力の硬化を予測出来なかったからでは ないかと思われる。その点、学会の夜におこなわれるグルーブディナーは一定の役割 をもっており、その折々の世話人の方々のご苦労には本当に感謝したい。しかしさら に、比較的少人数で多方面からの深みのある討論を保証するには、自由な学問的集ま りにある程度の経済基盤が必要である。その点で、自由な主題と自由な参加者で構成 できる総合研究(A)の飛躍的な数の増加が望まれる。

勿論、文部省などの国策的科学を推進する立場からすると重点研究等の主題が慎童に 選択され、人員も選択されたグルーブ研究でなければ経済効率が悪いと考えるのも理 解できないわけではない。しかし、科学の発展は本来各個人の自由な発想の斬新さと 意外さに期待する以外の方法はなく、また科学の社会的責任の一つが市民の各々に自 然に対してであれ、社会に対してであれ客観的、批判的な認識基準を提供することで あれば、個人の自由な発想による研究課題を慎重に審査し、審査員の見識の広さと未 来予見性をみがいて万人が納得する科研費の配分を行うのが至当である。その点、一 般研究と総合研究に科所費を統一し、審査員を増員して公平と新しい視点の恒常的流 入をはかるべきと思う。これは、ながく生理学会が堅持してきた姿勢とも一致すると 考える。