岡崎国立共同研究機構長 濱 清
生体の機能には個体のレベルから分子のレベルに到るまで必ず構造の裏付けがあり,物質の変化が伴っています.生理学は本来この三つの面を統合した 学問なのですが,生体機能に関わる物質の知識と理解が不充分であった時代には機能と形態が主な柱となっていたようです.1948年に私が解剖学の教室に 入った時,私の先生は19世紀までは組織学は生理学の一部だったのだよと言っておられました.50年代はじめに電子顕微鏡が導入され細胞微細構造の研究に よって細胞の生理機能解明が飛躍的に進みました.H.Huxleyが電顕像をふまえながら横紋筋収縮のモデルを提唱した1957年の学会での感動を忘れる ことが出来ません.これは物質と形態の機能の当時として最高の情報が結合された見事な成果だったと思っています.それから40年,その間に分子生物学の手 法が広く生理学に取り入れられ,生理機能を支える分子機構の理解は驚くべき進歩を遂げました.解剖学の分野も同じ途をたどりましたので,現在ではどちらの 学会に出ても同じようなアプローチを用いた同じようなテーマの発表が行われています.学問の分野に境界はなく,また共に大きな進歩を遂げているのですか ら,それ自身は結構なことですが,この分野では生理学者も,解剖学者も共に分子以上の生体構造の視点を失ったかに見えることがあります.しかも示されてい る形態の多くはコンピューターで抽出処理された画像か,グラフィックスで合成されたモデルで,大変カラフルで分かりやすいのですが,想像の域を出ないのは 寂しいことです.生体機能を分子レベルで理解するためには,生体内で働いている分子の姿を細胞構造の中で直接観察することが必要です.電子顕微鏡をはじ め,水中で原子レベルの分解能を保証するトンネル顕微鏡,原子力間顕微鏡などもすべて細胞内での分子の機能的な動態をリアルタイムに近い時間分解能で観察 することができないという欠点を持っているのでモデルに頼らざるを得ないのです.他のシグナルを用いると,ピコ秒,ヘムト秒での解析さえ可能となった現 在,これは高分解能形態学の致命的とも言える欠点です.
機能へと統合的な視点で機能と構造を重ね合わせて理解を進めていくことの必要性が再認識されています.この方向の研究は現有の研究手段で行うことが できるのですが,多くの時間をかけた努力とトレーニングが必要なために生理学の分野でも解剖学分野でも手を付けようとする人が少なく,指導する人さえも乏 しくなっているのが現実の姿で,これも頭の痛い問題です.
然し,暗い寂しい話題だけではありません.光学顕微鏡法,物質の標識およびモニター技術の進歩によって,生体機能と構造の研究は1950年代と同 様に全く新しい時代を迎えました.細胞内の機能分子の動態をリアルタイムで操作観察できる時代がひらけて来たのです.生命科学にたずさわる者にとって新し い時代の幕開けと言えます.このことは,ただ,生体内の分子が見え,操作できるという時間および空間分解能の向上だけの問題ではありません.細胞体がバル クとして持っている機能情報には量り知れない大きな意味があります.それを細胞全体の中で捕らえ,解析することができれば開けてくる世界は小宇宙とも言う べき大きな拡がりがあります.そして細胞の機能は個体機能へと統合されていくわけですから夢には限りがありません.細胞生物学者の父と敬われた故 Keith R. Porter教授は,生物電子顕微鏡学の幕開けの時代,1956年に,For those of us who are fortunate to be part of this new development, these are days of great interest and opportunity. と書かれています.40年後の今,新しいアイデアと夢を持った研究者によって骨太い生理学が展開されることを期待します.ただ,ひとつ付け加えたいのは生 理学の基本は,自然と命に対する尊敬と愛にあるということです.