岡山大学医学部生理学第二講座教授 菅 弘之
遺伝子工学や分子生物学の隆盛に連れて、生理学の意義に関する論議が盛んになっている。私は医学部卒業以来30年間、循環・心臓のシステム生理学 研究にのめり込み、幸いに心臓生理学の新概念(Suga : Ventricular energetics. Physiol Rev 70 : 247, 1990)を世に出し得たことで、自分の歩んでいる道が正しいと思っている。
生理機能は構成要素の複雑な相互作用の表れである。血圧という循環生理学の基本的変数を見ても、血圧=末梢神経×心拍出量と単純に記述されるが、 生体内ではそれら変数間には複雑な相互作用があり、例えば末梢抵抗を変えると心拍出量も同時に変化し、血圧変化の単純な予測は当たらない。末梢抵抗も心拍 出量も相互に影響しあう他に、それぞれ血管平滑筋緊張度、心筋収縮性等、多くの因子に依って決まり、究極的には遺伝子発現や分子細胞レベルでの多数の要素 の複雑な相互作用に依存する。従って、血圧変化を知りたいときには、現在でも正確な経時的予測はできず、大まかな予測か直接測定しかない。
最近話題の複雑系科学では、確率現象と決定現象の間にカオス現象があることが知られている。例えばXiからXi+1が正確に決定される式Xi+1=aXi(1-Xi)を考える。a<4であれば、与えられた初期値Xiに僅かの誤差があっても、何百ステップ後のXi+1は同程度の誤差を持って予測可能である。しかしa>4となると、初期値に僅か何百分の一の誤差があっても、数十ステップ後のXi+1は大幅に異なる値を取るカオス現象となる。これは決定現象でも場合によっては経時的予測が不可能となるという科学革命である。このようなカオス現象は自然界にいくらでも存在することが知られている。
このことは生理学においても重大な意味を持つ。一つの生理機能を理解しようとする場合でも、それに係わる多くの構成要素とそれらの全相互関係が詳 細に把握され、論理的に統合出来たとしても、どこかにカオス現象が含まれていれば、その生理機能の経時的予測が不可能となることを意味する。従って、カオ ス現象を含むような病的生理機能の予後判定には、悲観的にならざるを得ないだろう。
他方、筋生理学を例に取れば、要素過程であるイオンチャンネル開閉もクロスブリッジ運動も単分子生理学的には確率現象である。しかし複雑システム 機能としての筋収縮は、正常時には安定な決定現象であるかのように見える。このような性質を持つ生理機能も多い。そのような生体システムのミクロ・マクロ 連関には、大数の法則、フィードバック制御等を含め、様々な仕組みと論理による動的平衡現象(ホメオスターシスあるいはホメオダイナミクス)等が介在し て、滅多なことではカオスに陥らないような巧妙なシステムになっているに違いない。
システム生理学の意義は正にこの確率現象と決定現象が巧妙に組み合わされている生理機能の仕組みと論理を解明することにあろう。今やシステム生理 学は、古典的な系、臓器生理学ではない。有機的にあるがままの系、臓器、組織、細胞などをダイナミックシステムとして捉え、そこに益々累積してくる要素還 元的生理学知識を有効に統合利用して、マクロ・ミクロ関連を解明していく学問である(Boyd & Noble (ed) : The Logic of Life : The challenge of integrative physiology. Oxford UP, 1993)。そのためには、自分が興味を持つ研究対象システムを選ぶこと以外に、実験、計測、データ処理、その解釈など、様々な問題の解決が必要がある。 夢多き研究テーマが尽きないと思われるこのようなシステム生理学あるいは統合生理学に挑戦する若手研究者が少しでも多く出てくることを期待したい(日本学 術会議生理学研究連絡委員会報告:生理学の動向と展望「生命への統合」、1997 ; Long-range planning committee : The sun breaks through the clouds : a bright future for physiology. The Physiologist 39 : 375, 1996)。