金沢大学医学部生理学第一講座 永坂鉄夫
昭和59年に、日本生理学会から、生理学餘外集と試道集の復刻版が出版された。昭和 の初期、新進気鋭の教授たちがいろいろな会合でされた話の記録や随感随想などを集 めたものだが、それをみると、当時すでに生理学のあり方、研究領域、生理学から分 離した生化学との関係、生理学の教育、振興策などが繰り返し議論されている。それ らのほとんどは、たとえば生化学を分子生物学と置き換えてみれば分るように、一部 言葉だけ入れ替えれば昨今の生理学会における議論にそっくりそのまま当てはまり驚 かされる。
そのなかに、生理学の振興にはもっと研究の独創性を尊重すべしとの議論があった。 最近生理学会で持つ危機感は、生理学に若い人材が集まり難いということで、日本生 理学雑誌に巻頭言を設けることになった理由の一つも、その打開策を模索するためと いってよい。それでは、なぜ生理学の研究に若い人が集まらないのか、顰蹙を買うこ とを覚悟の上であえていえば、それは日本の生理学の研究がそれほど面白くないから である、なぜなのか、結局は現在の日本の生理学の研究に真の意味での独創性が少な いためと思う。日本人の研究(論文)には欠点が少ない。それは日本人の几帳面さに も原因するが、欠点のない研究(論文)にはあまり強い独創性は期待できない。
日本では科学といえば事実だけが重視ざれ、論文でも事実を記載するだけで科学者自 身はいたって寡黙である。ところが欧米では、百科事典的な事実の羅列には高い評価 が与えられず、それゆえ彼らは、多少の事実が集まると、それに基づいてすぐ仮説を たてる。科学とは仮説を提起することで、たとえその仮説が結局は間違っていたこと になろうと、それによって多くの人が刺激を受け、その分野の仕事が発展すればよい と考える。だから、彼らの書いた論文は日本人の書いたものと比較して物語性があり 、欠陥はあっても読んで面自い、
以前に岡田泰伸教授が同じようなことを書かれていたが(本誌58巻9号巻頭言)、日 本の生理学者は自分の研究にあまりにもモデストで、研究費の申請書などにも自分の その研究が生理的にいかに重要で、生理学だけではなく他の研究領域にとってもかく も有意義であり、人類の福祉にも多大の貢献をするなどといったいわゆる宣伝がほと んどない。それを専門領域の多少外れた人が読めば、おそらく機器の取扱説明書を読 むがごとく、無味乾燥で面白くなかろうと思う。これは、日本では「ほら」は悪徳で 、正当な宣伝も「ほら」ととられることを恐れるためかとも思うが、私は生理学者は もっと「ほら」を吹くべきであると思う。だまっていても自分の研究の核心は以心伝 心で他人に伝わると考えるのは、現在のような国際化した科学の世界では成り立たない。
世界的に立派な研究をした人にノーベル賞など有名な賞が与えられるが、実際に実験 をしたのはその下で働いた日本人であったというような非難めいた愚痴などを耳にす ることがあるが、その愚痴は欧米流にいえば間違いで、下で働いた研究者は事実を集 めたには違いないが仮説(ほら)をたてたのは受賞者であったという判断だと思う。 煎じ詰めれば、寡黙な日本人は結局損をしていることになるのだが、それは日本人の 日頃のdebateの訓練の欠如にも原因しよう。日本では学会その他でも本当の意味での debateが少ない。学会発表の討論がほとんど方法や結果の確認程度に終わることは会 員ならばよく知っていることであり、これも学会に人が集まらない理由ではなかろう か。それを打破するには平生の訓練も必要だが、もっと大切なことは科学にたいする 考えを早く切り換えることである。その意味でも、明年3月に金沢で行われる第75回 生理学会大会での会員諸兄姉による活発なご討議を期待する。