「生命の理(いのちのことわり)」生理学教育と研究における問題と提言

医学部教育の実情を鑑みて、医学部における生理学教育を中心に問題点を提示し、提言をまとめる。

人が社会生活を営む上で最大の関心事は、生涯を通しての健康な状態の維持にある。したがって、全ての人が最も関心を持っていることは、人体の機能に関わる知識であり、このことは健全な社会集団の保持にも不可欠である。この生体の機能を研究する学問が生理学であり、遺伝子・分子レベルから細胞、組織、器官、個体レベルまでの領域に限らず、広く生態学、心理学も包括している。これらの広範囲にわたる研究成果をある環境下におかれた生命体の機能へと統合することが、現在の全ての生理学研究者に課せられた重要な使命である。生理学研究者のみならず広く生命科学の研究者がこれらの重要な課題とそれを遂行するための方策、そして人の生涯を通して生理学教育の在り方について、平成9年6月20日、日本学術会議生理学研究連絡委員会は「生理学の動向と展望:生命への統合」と題してその指針を提示した。

従来、医学の教育課程においては、解剖学、生理学、生化学など基礎医学から始まり臨床医学にいたるまでの教育が実施され、広い視野に立って生命現象を統合できる能力が養われてきた。このような観点から、生命現象の本質的な理解と広く社会への普及は医学部出身者による生理学の教育に委ねられてきた。然るに、現在の医学教育機関においては、医学教育上の最も基盤となる生理学の教育は危機的な状態にある。もちろん、他の学部ならびに研究機関においても生理学の教育あるいは生命科学に関わる教育は極めて重要な課題であることは言うまでもない。しかし、これらの教育と最も密接に関わっている医学部教育の実情を鑑みて、医学部における生理学教育を中心に問題点を提示し、提言をまとめる。医学部における生理学教育の実情は、社会全般における生理学ならびに生命科学に関わる教育に波及することが明らかであるためでもある。

現在の医学教育と生理学教育において、以下の問題点が挙げられる。

  1. 生理学教育の時間数の削減:統合カリキュラムやチュートリアル教育など新しい教育システムの導入にともない、各学問領域の時間が大幅に削減されている。生理学の教育は医学部学生に対して最低限必要とされるコアカリキュラムの知識の範囲に留まっている。その知識範囲にすら至らない大学も散見されるようである。学生にとってはコアカリキュラムの内容が到達目標になっているといっても過言ではない。CBT(computer-based test)の導入がこれに拍車をかけている。
  2. 生理学講座ならびにその定員の削減:年次計画で進められる大学教員の定員削減に加えて、各国立大学の法人化にともなう大学や医学部・医科大学の経営が最重要課題となり、生命機能の基礎を理解する生理学教育の重要性とこれを教育すべき生理学教員の確保は二次的な問題となっている。既に全国レベルで講座数あるいは教員定員の削減が始まっている。このことは生命科学の理解に不可欠な生理学研究の衰退に拍車をかけることは明らかである。国立大学におけるこのような事情は公立大学にも不可避的に波及しているし、私学に至っては危機的な状態に陥ろうとしている。
  3. 生理学志向の研究者の減少:現在、大学医学部あるいは医科大学においては、医学を学んだ研究者が少なくなり、他の理系の学部出身、時には文系の学部出身の研究者に変わりつつある。生理学を志向する研究者自身が減少の傾向にある。このような状況下において、真の生理学教育の実施と生理学研究の遂行にあたっては、これら医学部外の出身者に対する統合的な理念を基礎とした生理学の教育と生命を取り扱った研究の経験が必要であり、このような教育研修と実経験のための環境作りが喫緊の課題である。

このような生命科学の根幹をなす生理学の教育と研究の遂行と将来への発展にあたっての危機的な問題に対して、日本生理学会として以下の提言を行う。

(1)医学教育の基礎となる生理学教育の重要性と位置づけ

生理学は、「生体が働く仕組みとその論理・法則及び意義を明らかにする学問」である。生理学は、ノーベル賞に「医学・生理学賞」と称されているように、医学を含む全ての生命科学を包括する重要な学問である。正常な人体の機能を理解することなく病的な状態の機能、すなわち病態を理解することはできない。全国の医学教育機関の中でコアカリキュラム、統合カリキュラムなど、さまざまな医学教育が実施されているが、そのような中においても基礎医学、とりわけ生理学の重要性は明らかである。

提言

  1. 医学教育機関における生理学教育は、全ての医学教育の基礎として位置づけて教育する必要があり、重点的な配慮が必要である。
  2. 生理学の立場から、言い換えると生命現象を統合するという立場から、医学コアカリキュラムの見直しが必要である。
  3. 統合教育の中では、臨床教育と連携してその基礎となる生理学の再教育を行うことは重要であり、生命現象の本質的理解へより緊密に結びつくものである。

(2)生理学実習の充実

医学教育機関における生理学の実習は、生体の機能を統合的に理解する上で重要であるだけでなく、各種の病態を論理的に捉え、適切な治療を行う上での訓練の場でもある。医学の統合教育において生理学はその中心的役割を果たしている。生理学実習の特徴は、使用する機器等が一般に高価であるために同じ機器を多数そろえて同じ実習を同時に実施することが極めて困難であること、良い教育効果を生み出すためには可及的小グループの実習が好ましいこと、生体機能の統合的理解を深めるためには生理学の多くの領域についての実習経験を積むことが好ましいこと、である。したがって、生理学領域における教育カリキュラムの削減ならびに教員の定員削減への流れは医学教育過程における生理学実習の重要な役割と矛盾するものである。

提言

  1. 生理学実習は生命を取り扱う医学教育の基礎と位置づけられるものであり、教育教員の人的支援ならびに実習用の機器の整備・充実のための経済的支援が一層図られるべきである。
  2. 医学教育の過程で、生命とその働きについての総合的理解を深める意味で生理学実習における動物実験は不可欠である。また、この実習を通して生命の尊厳を学ぶことができる。動物から学ぶ生理学実習に対して一層の充実が図られるべきである。医療に還元される動物実験の重要性については、一般社会の認識が一層深められるべきである。
  3. 医学教育の現状を勘案し、各基礎医学領域と連携した形での生理学実習を通して統合的理解を図る試みも必要である。

(3)生体の機能を本質的に理解した良き医師の育成

生理学は各種の疾患を総合的かつ本質的に理解する上で極めて重要な位置を占める学問である。生理学の基礎知識とその応用力をしっかりと身につけて、各種の病態を解析できる能力をもった医師を育成することが大切である。多様な形で発現する病態は共用試験におけるCBTや国家試験のような多肢選択形式で割り切れるものではない。論理的・統合的な問題解決能力の育成が重要である。

提言

  1. CBTや国家試験の出題方式、これらの試験の在り方に関しては、生理学の基盤のもとに再検討されるべきである。
  2. 臨床教育後における生理学の再教育についても、十分考慮の余地がある。
  3. 医学は全ての分野においてめざましく進歩しつつある。医師の生涯教育として、臨床医学だけでなく、基礎医学、特に生理学の最新の教育が実施されるべきである。

(4)生理学教育教員の育成と確保

現在、医学部を卒業後、生理学を含めて基礎医学を目指す者は極めて稀である。学部学生時代に生理学に関心があって多少の研究をする者がいても、卒後には多くの者は臨床医学の道を歩む。大学院生として生理学の研究に従事しても、修了後には臨床医学に移る。したがって、多くの医学教育機関において、医学部学生に生理学を教育する教員は医学部以外の学部出身者になりつつある。この提言は決してこの現象を否定し、阻止するものではない。むしろこの現象をポジティブに受け止めて、良き医師の育成のために医学界として適切な措置を講じる努力が必要であることを提言するものである。また、生理学の真の教育は生理学の研究とそれによって得られた経験を基盤として成り立つものであり、教科書だけに依存した教育は真の教育とは言えない。教員にとっては、生命体の機能に直接触れた経験が生命に関わる教育を行う上で必須である。このような視点は、医師の育成のための教育に必要であるだけでなく、コメディカルに対する教育、一般教養としての教育、さらに広く社会人に対する生涯教育として不可欠である。

提言

  1. 医学部出身の生理学教育者の育成が、先ず重要である。臨床医学志向の医学部出身者が多い中に、学生時代から基礎医学への志向を促すような環境づくりが重要である。卒後、生理学の教育・研究に専念できるような経済的な支援も重要である。また、医学部以外の出身教員に対しては、医学的観点からの生命現象の統合的な理解へ向けての生理学教育を適切に実施すべきである。また、そのような機会を全国レベルで提供する工夫が必要であり、このための人的並びに物的あるいは経済的支援が望まれる。
  2. 生命の機能、命とは何か、に直接触れ、その経験を増す工夫が必要である。この意味で、生理学に関わる各種の動物実験は欠かせない。このような適切な実地教育のための多角的な支援が必要である。
  3. 各医学教育機関においては、教育上の重要性に十分鑑みて各講座への教員の配置が行われるべきである。安易に行われている均等配分と均等削減は、医学教育上好ましくなく、将来に大きな禍根を残すことになる。

(5)生理学研究者の育成

生理学研究者の育成と増員は、医学教育を適切に行うためだけでなく、生命科学の発展に不可欠である。生命科学の研究には、遺伝子、分子、細胞、組織、器官、個体をさまざまなレベルの研究がある。それぞれのレベルでの研究成果を統合し、個体レベルへと集約するのが生理学研究に課せられた大きな課題である。この統合によって遺伝子・分子レベルの研究の成果が生きてくる。したがって、生理学研究の推進は医学・生命科学の発展に不可欠と考えられる。ノーベル賞の「医学・生理学賞」の領域で日本人の受賞者が1名、しかも国外での研究というのは実に寂しい話である。セリエのいう「課題解明者」としての優秀な研究者は多いが、独自の感性と観察力で独創性の高い研究を行う「課題発見者」の存在が少ないことが問題である。

提言

  1. 適切な生理学教育を受けた生理学研究者の育成は医学の発展に不可欠であり、医学部内の教育カリキュラム以外にも、さまざまな視点からの適切な教育の場を提供することが必要である。同時に、生理学研究に関連した各種の実験技術の提供の場も必要である。このような場を豊富に提供することで「課題発見者」としての素養が培われる。
  2. 生理学研究者の増員には、医学部出身者だけでなく、他学部出身で生理学を志向する研究者に対して魅力のある生理学研究の推進と研究に従事できる経済的な支援は欠かせない。
  3. 独創的な生理学研究の発展のためには、医学部出身者に加えて他学部出身者を交えた学際的な研究の推進が必要である。「課題発見者」としての素養は広い視野を持って研究に取り組む姿勢から培われる。ポスドクを始めとして諸外国の研究者の招聘の推進、制度としての確立、そして発展的拡大化は国際レベルへの研究の展開に不可欠である。

(6)生涯教育としての生理学と社会への貢献

生命科学への出会いは幼少期から始まる。全ての幼児は自然の中の生命体に興味を示す。多くの生命の不思議に触れて両親からの教育を受ける。中学生あたりまでは、共通して生命科学のかなりな基礎的知識に関わる教育を受けている。しかし、高等学校、そして大学にいたっては、生命科学との触れ合いから遮断されていることが多い。その教育課程において、生き物を間近に触れる機会は全くないといっても過言ではない。現在の日本の教育過程では、生命科学に関わる教育に割かれる時間が惜しまれているのが、実情である。生命科学の基礎は全ての領域の人たちにとって必須の学問領域である。全ての人に対する生涯教育として極めて必要性の高い学問領域である。

提言

  1. 全ての教育過程において生理学教育、あるいはこれを包含する生命科学の教育が行われるべきである。これに関わる生理学者の関与は欠かせない。
  2. 大学教育においては、全ての学部において生理学の教育あるいは生理学に視点を置いた生命科学の教育は、最低限教養教育として必要である。
  3. 医学の発展はめざましい。全ての人に生涯教育として生理学あるいは生命科学の教育を授受させる機会を考慮するべきである。

最後に

生命科学に関わる研究は極めて幅広い。全ての医学領域の研究のみならず、理学部、工学部、農学部、薬学部、獣医学部など理系の学部の関わりも欠かせない。さらには、文系の学部も広い意味では重要な役割を果たしている。日本が国際レベルで生命科学の発展を遂げるためには、これらの領域が全て関わる学際的研究の推進が重要である。これらの幅広い学問領域を統合的視点で生命のダイナミックな機構に集約できるのが生理学であり、そこにフィジオームphysiomeの概念が存在する。それは単に医学の一分野としての生理学ではなく、生命を取り扱う全ての領域の研究に当てはめることのできる概念である。生理学をリードする研究者は、生理学の研究を志向する全ての研究者を生理学の理念のもとに育成し、真に“Lively Learning of the Logic of Life”の環境を提供する努力が必要である。